LOGIN筆跡鑑定人から追加報告が届いたのは、八億円分の保険契約を分類した翌朝だった。久世の事務所へ入ると、机の上には美琴の自然筆跡と、偽造の疑いがある署名を年代別に並べた拡大資料が何枚も広げられている。鑑定人は前より厚いファイルを持参しており、挨拶を終えるとすぐに一枚目を美琴の前へ置いた。紙には二十二年前、十二年前、三年前という三つの時期が大きく区切られ、それぞれの署名の特徴が赤い線で示されていた。「先日の鑑定では、長期間にわたり一つの基準筆跡を模倣している可能性が高いと申し上げました。ただ、資料が増えたことで訂正すべき点があります」美琴は椅子へ深く座らず、背筋を伸ばしたまま鑑定人の指先を見た。先日の鑑定で、偽造署名だけが年月を経ても不自然なほど変わらないと説明された時、自分の名前を一人の誰かが二十二年間練習し続けてきたように感じていた。けれど鑑定人は、初期の契約書、中期の保証契約、直近三年間の医療関係書類を順に指し、それぞれ筆圧の入り方や払いの癖が異なると説明した。「少なくとも三種類あります。同一人物が年ごとに書き方を変えた可能性を完全には否定できませんが、自然な運筆の癖まで比較すると、別人が模倣したと考える方が合理的です」「三人……」美琴は自分の口から出た数字を聞き、胸の内側が冷えていくのを感じた。一人の執着なら、まだ理解の仕方があった。けれど三種類ということは、自分の名前が一人だけの秘密ではなく、複数の人間へ渡されていた可能性がある。鑑定人は最も古い署名を拡大した。二十年以上前のそれは、美琴が十八歳から二十代前半に書いていた字をよく写しているが、「榊」の木偏の入りが不自然に慎重で、本人より線を置く前のためらいが大きいという。中期の保証契約では逆に、形を覚えた人物が速く書こうとした痕跡があり、「琴」の最後の払いだけが本人より強い。直近三年間の医療同意書や面談関係書類は、さらに別の特徴を持っていた。「この三年分だけは、形を写したというより、日常的に筆跡を見ている人の模倣に近いです」久世が眼鏡の位置を直した。「どう違うんです」鑑定人は美琴本人の最近の礼状と、偽造された移植同意書を重ねた。文字の大きさは完全には一致しない。それでも、年齢と服薬の影響で最近の美琴に現れていたごく小さな震え方まで、偽造側が部分的に取り込んでいる。「昔の署名見本だけを渡された
保険会社から取り寄せた資料は、久世の事務所の長机を半分以上埋めていた。契約者名、被保険者名、受取人、保険金額、契約日、増額日、特約、払込口座。美琴は一枚目の証券を手に取ったまま、しばらく文字を追うことができなかった。以前に見つかった生命保険だけでも数億円だったが、今回の照会で契約先が一社ではないことが分かった。社名の違う証券が年代順に並べられ、そのどれにも〈榊原美琴〉という自分の名が記されている。「現時点で確認できた死亡保障の合計は、およそ八億円です」久世の声はいつもと変わらなかった。数字が大きいからといって声を落とすことも、美琴の顔色を窺って言葉を濁すこともない。美琴はその方が助かった。八億円という額に感情を与えられれば、自分までその重さに押しつぶされそうだったからだ。「受取人は全部、征士郎さんですか」「いいえ。個人受取が三件、榊原医療開発が二件、ミコト・アセットが二件です。一部は契約途中で受取人が変更されています」久世が一覧表を差し出す。美琴は指先で行を追った。初期の契約は数千万円規模だった。それが更新や追加契約を重ねるたび、少しずつ増えている。一度に八億円の死亡保障をかければ保険会社側でも不自然に見えるが、二十年以上に分散し、会社の事業拡大や家族構成の変化に紛れさせれば、外からは一つの意図として見えにくい。「最初から八億円だったわけではないんですね」「ええ。長期間かけて積み上げています。大きく増えた時期は三度あります」久世は赤い付箋を貼った三箇所を示した。最初は宗一郎が亡くなった直後。二度目は五年前、冬真の爆発事故が報道された直後。そして三度目は三年前、華帆の肝疾患が急激に悪化し、移植の検討が始まった時期だった。美琴は最後の行に目を止めたまま、契約金額よりも日付を何度も確認した。父が亡くなった直後に保険を増やされたことは、今まで見てきた資産移動と結びつく。冬真の死亡報道後の増額も、すでに見つかった高額保険と一致している。けれど華帆の病状が悪化した時期に、さらに死亡保障が増えていることだけは、どうしても腑に落ちなかった。「おかしくありませんか」窓際に立っていた冬真が視線を向けた。美琴は三年前の契約書を指で押さえ、増額日と華帆の検査記録をもう一度見比べた。どちらも同じ月に集中していることを確かめると、胸の奥に残っていた違和感がますます大きく
久世が用意した一覧表は、長机の端から端まで届きそうな長さになっていた。最初に見つかった十数億円の連帯保証契約だけでも十分に異常だったはずなのに、その翌日から照会先が増えるたび、美琴の名前が別の書類から現れた。銀行、リース会社、医療機器メーカー、病院法人、建設会社。契約の種類も金額も違うが、保証人欄に記されているのは同じ名だった。「三十八件です」久世は感情を交えずに言った。机の上には現在も有効な契約、すでに完済された契約、失効した保証、更新のたびに条件が変わった契約が色分けされている。すべてを単純に合算することはできない。それでも、元本だけを積み上げれば数十億円に達していた。美琴は一覧表へ指を置いたまま、すぐには返事をしなかった。数字が大きすぎて驚けないのではない。むしろ一件一件の金額より、契約日が二十二年間へ広く散っていることの方が気になった。十八歳で榊原家へ嫁いだ直後から、四十歳になる現在まで途切れていない。最近になって突然作られた仕組みではなかった。「全部、私が保証したことになっているんですね」「書面上はそうです。しかも単なる専務夫人ではなく、榊原医療開発と関連会社の資金調達へ継続的に関与した人物として見えます」「共同経営者のように?」「そう評価される危険があります」久世は一冊のファイルを開いた。ある銀行の融資稟議には、美琴について〈創業家に準ずる重要関係者〉〈個人資産を背景とした保証能力あり〉と記載されている。別のリース会社では〈桐生家資産の承継予定者〉という一文まであった。美琴自身は当時、父の信託の存在すら知らなかったのに、貸す側にはその情報が伝わっていた。胸の奥に鈍い圧迫感が生まれた。征士郎が不正を問われた時、自分は何も知らなかったと訴えるだけでは足りない理由が、また一つ増えたことになる。外から見れば、美琴は二十二年間にわたり自らの資産と信用を差し出し、夫の会社を支えてきた人物なのだ。会社の金が不正に動いていたと知れば、なぜ保証を続けたのか、なぜ止めなかったのかと問われるだろう。「私が被害を受けたことと、責任を問われる可能性があることは別なんですね」「ええ。だから、三十八件を一つの塊として扱わない方がいい。いつ、どこで、何のために作られ、あなたがその日に何をしていたかを分けます」久世の言葉を聞き、美琴は自分の手帳と家計簿、資金繰り
非通知の電話が切れてからも、美琴はしばらく携帯電話を机へ戻せなかった。耳元にはもう何も聞こえないのに、「宗一郎さんの手紙を取り戻したければ、九条冬真には黙って会いに来てください」という男の声だけが、妙にはっきり残っている。目の前では久世が通話記録の保存を確認し、冬真は壁際から一歩も動かず美琴を見ていた。隠して会えと言われた以上、この場で黙る理由はなかった。「今の電話、父の手紙を持っていると言いました。冬真には黙って会いに来い、と」冬真の目が僅かに細くなった。「どこへだ」「まだ場所は言われていません」「なら、次にかかってきても出るな」即答だった。美琴は携帯電話を机へ置き、「それはできません」と返した。冬真の口元が硬くなる。以前なら、その顔を見ただけで自分の判断を引っ込めたかもしれない。けれど今、美琴が追っているのは自分の父が残した信託であり、自分の名で結ばれた保証契約である。そこから自分だけが外れることの方が不自然だった。「父の手紙も、信託も、私の名前で作られた契約も、全部私のことです。誰かに代わりに聞いてきてもらうつもりはありません」「単独で会わせる気はない」「私も、一人きりでどこかへ行くつもりはありません。でも、あなたが隣に座れば、相手は話さないでしょう」冬真は答えなかった。久世が二人の間へ入るように資料を閉じ、「では、場所が指定された段階でこちらが条件を組みます」と言った。美琴が交渉の席へ入り、久世と冬真は離れた場所で待機する。通話と位置情報は共有し、何かあればすぐ介入できる状態にする。相手に九条側の警戒を見せすぎず、美琴だけを危険へ晒さないための折衷案だった。次の連絡は一時間後に入った。指定されたのは都心の高級ホテル、その最上階に近いラウンジだった。人目があり、防犯カメラも多い。個室でもなければ、出入口が一つに限られている場所でもない。久世はその選び方を見て、「相手も完全に隠れる気はないようですね」と言った。ホテルへ着くまで、美琴は車内で父の信託関係書類を読み返した。桐生承継信託第一号。四十歳になった美琴へ受益権を移す契約。五年前の保証契約では、その将来受益権を担保予約へ入れたことになっている。さらに崖から落とされた翌日には、健康上の理由で管理権取得を延期し、征士郎を代理人とする申請が出され、その確認者として片桐礼司の署名があった。
ミコト・アセットマネジメントの狭い事務所には、紙の匂いと古い空調の低い唸りだけが残っていた。鍵のかかった書庫から取り出した連帯保証契約書は、久世の前に広げられたまま動かない。美琴はその端へ指を置き、担保欄に印字された〈桐生承継信託第一号〉という名称を何度も目で追った。父・宗一郎が自分へ残した信託の正式名称を知ったばかりなのに、その下には五年前の日付と、保証限度額として十数億円という数字が並んでいる。さらに管理関係者の欄には、九条家と長く対立してきたという片桐礼司の名前があった。「征士郎さんが父の遺産を狙っていたことは、もう分かっています」美琴は契約書から視線を上げずに言った。声を落ち着かせているつもりでも、紙に触れた指先には薄く力が入っている。父の遺産と冬真の事故が同じ紙の上で結びついていることが、まだ現実としてうまく馴染まなかった。「でも、どうして片桐さんがここにいるんですか。冬真の事故にも関わっている疑いがある人なんでしょう」久世はすぐには答えず、契約書を自分の方へ引き寄せた。保証条項、担保設定条項、別紙の信託情報を順に読み直し、途中で眼鏡を外して目頭を押さえる。それから再び眼鏡をかけると、担保欄の一文を指先で示した。「少し違います。信託そのものを担保に差し出した契約ではありません」美琴は眉を寄せた。久世は条文を一行ずつ追いながら、受益権取得時に将来発生する財産的権利を保証債務の担保へ組み入れる予約契約になっていると説明した。宗一郎が信託へ入れた財産を五年前の美琴が直接差し出したのではなく、美琴が四十歳になり受益権を取得した時点で、その権利を担保として押さえられる仕組みだった。「つまり、まだ私のものになっていない時から、将来受け取るものを予約していた?」「そうです。ただし問題があります。契約当時のあなたは、この信託の存在自体を知らなかった」久世の指が署名欄で止まった。そこには、美琴の名を模した署名と実印がある。契約の対象となる権利の内容を本人が認識していないまま、その将来権利だけを担保へ差し出す合意が適切に成立したとは考えにくい。仮に署名が真正だったとしても、何を担保へ差し出すのか説明されたか、本人が理解していたかが争点になると久世は言った。美琴は五年前の自分を思い出した。冬真の死亡報道を見た翌日、何も食べられず、頭が重く、征士郎の用意した
ミコト・アセットマネジメント株式会社の登記簿には、美琴の知らない三年間が整然と並んでいた。設立年月日、資本金、本店所在地、事業目的、代表取締役。どの欄にも不自然な空白はなく、むしろ何も知らない美琴の方が間違っているように見えるほど、会社としての形だけは整っている。久世の事務所で登記記録を一枚ずつ確認しながら、美琴は自分の名前が印刷された代表者欄を何度見ても、そこに自分の人生が存在する感覚を持てなかった。設立は三年前の五月だった。華帆が榊原家へ現れ、美琴が父の残した最後の家族だと信じて屋敷へ迎え入れた、その直後である。事業目的には資産管理、有価証券の取得および保有、医療法人への投融資、債務保証、医療関連事業への出資が並び、本店所在地は榊原医療開発の関連会社がいくつも入居する古い雑居ビルになっていた。美琴はその住所を知っていた。会社の倉庫整理で何度か請求書を送ったことのある建物だったが、自分名義の法人がそこに存在すると聞いたことは一度もない。「株主総会議事録もあります」久世が別の束を机へ置いた。設立時から毎年、定時株主総会が開かれたことになっている。取締役の選任、決算承認、融資枠の設定、関連会社との取引承認。そこにも〈榊原美琴〉の署名があり、実印が押されていた。印鑑証明書まで添付された書類もあり、外から見れば、代表者本人が何年も会社を運営してきたようにしか見えない。美琴は議事録の日付を見て、手元の家計簿を開いた。最初の株主総会の日、美琴は華帆の検査に付き添って大学病院へいた。二年目の決議書の日には、喜和子の法事のため朝から寺にいた。三年目の取締役決議の日には、榊原医療開発の資金繰りが逼迫し、美琴自身が取引先へ支払い延期を頼んでいた。そのすべての時間に、別の場所では美琴が代表取締役として決裁したことになっている。「会社の口座へ、私の旧口座の解約金が入っているんですね」「それだけではありません」久世が画面を回した。銀行から取得できた範囲の取引履歴では、ミコト・アセットへ美琴名義の預金が複数回移され、その金が短期間で榊原医療開発や関連会社へ貸し付けられている。貸付金の一部は返済されず、別の融資へ振り替えられ、損失を表面化させないための穴埋めに使われていた。さらに三つの病院へ資金を供給し、その直後に榊原医療開発が移植関連システムの契約を獲得している。美琴は数字